本日(2016年3月3日)の、読売新聞神奈川版朝刊にインタビュー記事が掲載されています。『みつめる 中1殺害裁判 「多様な生き方 気づいて」』という記事です。
『不登校』と『学歴』と『幸せ』のバランスを考える
不登校をしていると、『世の中、学歴じゃない!』と言うような励まし?をよくいただきました。勤続10年を迎えた元不登校として思うのは、『学歴や資格はないよりはあったほうがいい』ということでしょうか。
ただよく言う『いい大学を出れば幸せになれる』というのは、嘘ではないけれど言葉が足りないなと思います。「いい大学」を出ることはそれ自体が人生のひとつのツールになるということでしかないので、“その先”が見えていないことで人は迷うのではないでしょうか。
“その先”とは、自分はなにが好きでなにが嫌いなのか、どういったことが得意なのか、自分のどの部分を社会に活かすことができるのか-ということ。つまり自分という人間を理解できてないと、せっかくのツールも活かしきれないのだと思うのです。
だから、『いい大学をでて、“これ”をすることで幸せになれる』。
その“これ”が自分にとってなんなのかを考えることが大事なんだと思います。
(いい大学出ていれば立派なひと、というのも必ずしも正解ではないですね)
ときに人生には立ち止まることが必要になるときがきます。
私は、学校という社会のスピードについていくことができずに不登校=立ち止まったわけですが、その速すぎる流れから一度離れ、自分なりに必要なことを蓄積しペースを取り戻すことで、社会の中にもう一度戻ってくることができたのだと思います。
私が不登校で得られたことは、自分のペースで物事を考えることで、自分なりの答えや価値観を蓄積することができたということでした。自分の好き/嫌いを理解したということも財産です。得意なことの把握は、職種の選択に繋がりました。ストレスを溜め、自分自身を保てなくなることで人間関係にも物凄く悪影響を及ぼすということを体験しました。そうならなように、自分が持っている特性/習性、思考のクセを把握することで、社会生活の中で自分にとって心地よい、持続可能な環境を整えやすくなりました。
“立ち止まること”で“考えること”ができるということ。
考えること、考えて考えて考えるということ。自分という人間はどういう人間なのだと把握することによって自分にとっての『幸せ』とはなんなのかを捉えることができたなら、不登校、恐れるに足らず、だなと思います。