世に出てからこそ実感する、引きこもることの辛さ

ちょっと前のことになりますが、
先日卒業生の紹介で登場したこうへいが遊びに来てくれました。
 
先日、就職の決まったこうへい。
早速働きはじめた彼が口にしたのは、
『ひきこもってるより仕事してるほうがよっぽど楽だなあ』と言うことでした。
いやほんと。そう思います。
 
世の中からのプレッシャー、家族からのプレッシャー、
そして、自分自身でかけるプレッシャー。
終わりの見えない圧力の中にいることは相当のものだったと、思います。
(もちろん働くことで掛かる苦しさや悩みもありますが、またそれはちょっと種類の違うもので)
 
家族、本人、、、誰が一番大変とは言いません。
でも、(あえていっしょくたに考えますが・・)
引きこもりは甘えである、不登校は怠けであるという風潮は、正しくないと思っています。
 
 
『ひきこもること』が“=楽”ではない、ということ
 
“一般的”、“社会人”、“ふつーの人”、自分以外の人間を表現する単語はそれだけで、そことかけ離れている自分を追い詰めます。どこでボタンを掛け違った、こんなはずじゃなかったはずだ―引きこもることで怠けるどころか、それは自分を追い詰めてる行為に等しいのではないでしょうか。
 
少なくとも私は、ふつーに学校通ったり、ふつーに友だちとコミュニケーションとることができない、“ふつー”でいられない自分をダメな人間と責めてましたし、そんなときにまわりの人間から、学校に行くことを促されたり、社会復帰を匂わされるともうそれ自体がわたしの存在否定になっていました。
 
わかってる。自分がダメなのはわかってるからもがいている。
そのもがいている自分すら否定される感覚です。
 
悪化させたのは、自分を救い出す術を知らなかったこと、というより人に助けを求める術を知らなかったことでした。
すべてを自分ひとりで考えて決めて・・・なんてしなくてもよかったのに。自分ではどうにもできないことも自分でやろうとするから、できなくて、できない自分が苦しい。
 
助けを求めることが下手過ぎて、故に言葉が足りなかったり、そもそも言葉で伝えられずに依存という行動で助けを求めたつもりになっていたり、それもうまくいかないどうしたらいいかわからないから腕を切っているようなものでした。
自分なりの『助けてくれー』という表現ではあったけど、それは誰にも伝わらないものでした。
 
辛い痛い寂しい、自分なりの表現で、親も友人も、好きな人も、自分の大変さを理解してくれる。助けてくれると、勘違いしていたことが、そこから中々抜け出せなかった原因になっていたかと思います。
(悩みはじめたのが小2。孤独に耐えかねて14歳くらいでリストカットに辿りつく。高校の頃はなまじ外に出た分、他者との関わりの中で依存傾向が強かった、でも結局孤独感は収まらず―)
 
でも実際はわかってもらうことなんてできなかった。
表現の仕方が下手すぎて相手の負担が重すぎて、離れていく―そしてまた傷付く・・・。
その繰り返しです。(中二病まっしぐら)
 
誰も自分を理解してくれないと思っていたけど、自分を一番理解していないのは自分で、自分を一番傷付けていたのも結果的に自分自身だったわけです。
ああもどかしい。
 
 
諦める必要はないということ
 
自分にかかる負荷が多くて、働きながら学校に行きながらだと支えられないから“籠る”という手段をとるのだとして。それは、割とスムーズな『助けてくれー』ができるようになると、進むことが楽になるんじゃないかと。
自分という人間を理解し、言葉で表現すること―
そうすることで自分をコントロールし、問題を解決する糸口を探すことが容易になるのではないか、そう考えています。
(これは引きこもりに限らず。生き辛さを感じる人に共通する事項かな、と思ったりもする)
 
彼らのポテンシャルは決して低くない。
でも自分の感情をコントロールすることやストレスをケアすることは苦手。
自分で抱え過ぎて立ち止まってしまう。
立ち止まった自分を自分で責める。そんな印象。
 
それまでの人生の中で欠けていた成功体験や対人関係のいろいろを経験することで、年齢に問わず自分と言うものを理解し、必要であれば組み替えていくこと。
そして、『困ったー助けてくれー』と言える友人を作れるということ、自分はひとりではないのだという気持ちでいれること。
そういう環境の中で、止めていた歩みを進める人間がいることは、グローバルスクールの生徒を通して実感してきたことです。
(ほんとに、何歳でも。人間ってすごいなーおもしろいなーって思う。)
 
 
どんな社会がいいのか―なんてそんな簡単なことじゃないんだけど
 
引きこもりが引きこもらざるを得なくなる社会って、引きこもらなくてもやっていける人にとっても、優しいわけじゃないと思うんです。
競争、格差・・それ自体はあっていけないことだとは思いません。
誰でも挑戦できる土台と、そこから外れた人を否定しない社会にはしたいと思っています。
 
でもそれを実現していくってどうやったらできるんですかね。
教育をかえる?どうやって?
家庭をかえる?家庭という円の中心になるのは親と言う名の大人であって、大人に対して?地域?やっぱりコミュニティか??
と、頭を抱えては、自分のできることからやっていこうと思い直す、、そんな最近です。
 
あれ、前向きなんだか嘆いてるんだかわからない風になっちゃったな・・・(苦笑
 
とりあえず、今週末は都知事選です。
都民の方は投票行きましょうね。ね。